心の命ずるままに
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引越しました
2017-10-04 Wed 16:47
新しい場所に引っ越しをしました。
「 Your Song 2 」 ”か“ 「 Your Song 3 」 ” を押していただければ移動します。

今後ともよろしくお願いします。
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親の恩
2014-08-10 Sun 05:28
昨年両親を相次いで亡くした私は、「孝行のしたい時に親はなし」、
「親を亡くして初めて知る親の恩」、「親の恩は海よりも深く山よりも高い」
などの親と子の格言を、心の中でリフレインしている毎日です。

そんな中、亡くなって初めて、その存在を知った父の手記を読んでいると、
自分の父 ( 私の祖父 ) について書かれた下のような文章を見つけました。

なお、私の祖父は福島県の富豪の家に生まれ、大学を卒業後、銀行に勤め
たものの昭和金融恐慌で銀行が倒産し、その後不遇な運命を辿り、最後は
酒がもとで、51歳の若さでこの世を去った人です。

『  口には出さなかったが、父のなすことには冷たい眼を向けていた。
 私にとって、父は完全であってほしかった。
 しかし、考えてみれば、神以外完全な人間などいようはずはない。
 私は、父亡きあと、父に対して取り返しのつかないことをしたという
 思いに取りつかれたことがあった。
 私は、この父から欠点も長所も貰ったという思いをしみじみと感じた
 のである。
 真面目なところ、意志が強くないところ、人と争うことのきらいな性格、
 これ等はみな父から貰ったものである。
 このお陰で今の自分があるのだと思う。
 一生反発した父であったが、この地球上におけるただ一人の理解者
 になったであろうと思うのである。
 私は、今一人の息子を持っている。
 父は生前、私に何の会話も交さず亡くなったが、私も吾が子に、
 心からの会話をしたことがあるであろうか。
 吾が亡きあと、息子に遺しておくべき言葉を交したことがあったろうか。
 こういう心の会話を交さず別れて行くのが、父と子というものであろうか。
 しかし、何も話さなくても父と子に変りはない。
 親にとって、この世で一番大切なものは吾が子である。
 やがて、この世を去るであろう父と母の血を受け継いでいるのは
 吾が子以外にはない。  これが親と子の絆なのである。 』

父の手記のこの部分を読んだとき、父が祖父から貰ったという性格が、正に
私そのものであることに気づきました。

そして、父が死の床で、私に何かを訴えていた表情を思い出すとき、それが
何だったのか、この手記を読んで初めて分かったような気がしました。

父は寡黙な人で、ふたりで居てもあまり話し合うことはありませんでした。
父が亡くなった今、生きている間に、もっと話し合っておけばよかったと後悔
しています。

しかし、亡くなった後、父は手記という形で、自分が生きてきた足跡を遺して
くれました。 そして今、遅まきながらようやく、この手記を通して、父との
“ 心からの会話 ” を始めたところです。

そして、これから娘とも、心の会話をしなければならないと思い始めました。
親を亡くして、初めて知る親の恩 ・・・ という言葉を、今噛みしめています。

手記

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心に太陽を持て
2014-07-19 Sat 21:31
私の両親は昨年相次いで亡くなりました。
特に、最愛の母が亡くなってから、8ヶ月経ちましたが、まだ心の中にぽっかりと大きな
穴が開いています。

私が小学5年生の時、兄が亡くなったのですが、その後時を経て、両親が老いてからは
私が二人を支えなければならないと考え、行動してきました。 しかし、二人とも逝って
しまった今、逆に支えを失い、生きる土台が揺らぐ不安定な思いをしています。

父は寡黙な人で、母は明るくお喋りな人でした。 しかし、母が人の悪口を言っている
のを聞いたことがありません。 母は、毎日ラジオを聴きながら、長時間台所にいて、
そんなにすることがあるのかと思うほど、いつもこつこつと仕事をしていました。

亡くなった後、台所を整理していると、どんなに古くてもまだ使えるものは捨てずに、
綺麗にしまっていました。 そして、料理や雑事に関して丁寧に書かれたメモがたくさん
見つかりました。 そのとき、いつも台所に居た理由が、ようやく分かりました。

母は物を大事にしていました。 そして、どんな物でもいつも時間を掛けて吟味していた
ので、母の買い物に付き合うのは大変でした。 無駄な物を買うのを嫌っていて、私が百円
ショップで同じものを買っただけで叱られました。 このように、母はとても生真面目で、
典型的な昭和一桁生まれの女性でした。

昨年の11月末に喪中ハガキを出した後、私の知らない母の姿を教えてくれた方がいました。
母が19歳のとき、代用教員をしていたようで、その時の教え子です。
その方から、下のような手紙と仏前に供えて欲しいとリンゴを送っていただきました。
74歳ということで、母と11歳しか違いません。 当時、年の離れたお姉さんのような
先生だったのでしょう。

「 和子先生の悲報に接し、胸が一杯です。 ご冥福をお祈りします。
昭和22年宇都宮市立簗瀬小学校2年2組の担当になられたのが○○和子先生でした。
母子家庭に育った私に何度も温かい手を差しのべていただきました。
和子先生は一年後、学校を去りましたが、別れぎわに一通の手紙をいただきました。

心に太陽をもて・・・
唇に歌をもて・・・
ツェーザル・フライシュレン 山本有三訳

はげましの文章を今でも忘れることが出来ません。
その後先生にお会いする機会もありませんでしたが60余年、賀状を通じて励ましと
やさしい言葉をかけていただき感謝しています ・・・ 」

母にこんな一面があったとは、父の手記を読んだときと同じ驚きを感じました。

私たち家族 ( 私、妻、娘 ) は全員6月生まれなので、先日3人まとめてレストラン
でお祝いをしました。 しかし、私の隣りにいるはずの母がいません ・・・ もう母の
世話をしなくてもいいのです。 この時、料理をゆっくり味わうことができたはずです
が、何とも味気のない食事になってしまいました。

母が幻の姿で私の前に現れることはありません。
でも最近、母の遺伝子の半分を受け継いでいる私の心の中で、母の魂を感ずるよう
になりました。 光を失っていた太陽が、私の心の中でまた輝き始めたのです。
そして、そのきっかけを作ってくれたのは、母の教え子からの手紙です。

19歳の母が、60余年後の息子に宛てたメッセージを教え子に託し、長い時を経て、
ようやく私の手元に届いた、というありえない物語を頭の中に描いてしまいました。

母はよく通る明るい声をしていて、今でもその声が耳に残っています。
そして、下の詩を詠んでいる母の声がどこからか聞こえてくるのです ・・・

教え子の手紙の最後に、下のような詩の全文が添えられていました。

「 小学校2年の恩師 ○○和子先生から贈られた詩 」

心に太陽を持て
嵐が吹こうと 吹雪が来ようと
天には黒雲 地には争いが絶えなかろうと
いつも心に太陽を持て

唇に歌を持て 軽く朗らかに
自分の務め 自分の暮らしに
よしや苦労が絶えなかろうと
いつも唇に歌を持て

苦しんでいる人 悩んでいる人には
こう励ましてやろう

勇気を失うな

唇に歌を持て

心に太陽を持て

  ( ドイツの詩人・ツェーザル・フライシュレン 山本有三訳)


手紙(一部)
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克彦の思い出
2013-04-30 Tue 17:45
「 思い出すままに ( 人生を綴る ) 」 平成11年 76歳
                     ~ 2013年4月24日逝去した父の手記より

昭和42年4月10日、その日は朝から曇っていた。
私は業界の会合で層雲峡温泉にいたが、夕方会食が始まろうとしていたとき、ホテル
の係員が来て、 “ 旭川の会社の事務所から急なお電話です ” という。
受話器を取ると “ 只今札幌のお宅からお電話があり、克彦さんが中学校の体育館で
事故死されたと言う知らせがありました。 急ぎ札幌にお送りするため庶務課長が
同乗して、会社の車を差し向けました ” という知らせである。

私はその前々年、函館の所長から旭川の所長に転じ、単身赴任を続けていたが、会社
の仕事が忙しく、家庭のことはすべて妻まかせであった。
あの元気な克彦がどうして事故死などしたのか、心は動転し、今その時の精神的衝撃
を述べることは出来ない。

やがて会社の車が到着し、既に暗くなった国道12号線を札幌に向ってひた走った。
克彦は如何なる死に方をしたのか、頭の中は混乱し悲しみは胸に溢れて、涙はとめど
なく、層雲峡から札幌までの2時間。 私は生れてはじめての苦しみに耐えた。
“ 後部座席から何度もうめき声が、そして、克彦 克彦と呼ぶ声が、札幌につくまで
きこえていました ” と助手席に同乗した庶務課長が後になって語ってくれた。

家に入るとむっとする焼香の臭い。 直ちに奥の部屋に寝かされている克彦の枕頭に
座し、悲しみに耐え、胸の張り裂ける思いで、吾が子の死を確認した。 □□中学校の
校長先生、教頭先生、担任の先生から、克彦の事故死の詳しい状況の説明を受け、
終ってお詫びとお悔みの言葉を述べられた。

会社の方々も多数弔問に来られ、葬儀その他のお手伝いを申し出られた。
夜が更けて客が散じた。 明日からは忙しくなるから体を休めておこうと思い、親子3人
寝つくことにした。 私は克彦の布団の中に横たわり、僅かに温もりの残っている吾が子
の亡骸(なきがら)を抱きながら寝た。 父と子の悲しい最後の夜であった。

子を一人前に育てるのは親の務めだが、不幸にして親に先立ち、若くして逝った吾が子
を、立派に葬ってやるのも、親の務めだと思った。
克彦の学校葬は、死去の翌々日、□□校長が葬儀委員長となり、教頭始め、全先生方、
同級生全員及び会社関係者が参列し、□□寺で盛大に取り行われた。

その後、□□中学校の全校生徒が校門に整列するなか、私は彼の遺骨を抱き、喪主と
して挨拶した。 次の日から何日か学校関係者、会社関係者、近隣の方々の弔問の客を
迎えて、お世話になった礼を述べ、彼の生前に受けた好意を謝した。

その後、私は□□中学校を訪ね、校長先生始め諸先生方に、お世話になった礼を述べ、
彼が学んだ学校に何か記念のものを残したいと思い、寄附を申し出たところ、先生方の
ご配慮により、生徒達が利用出来る書籍類を集めて文庫を作ることになった。
やがて文庫が完成し、 “ □□文庫 ” と名付けられた。

吾が家の今迄の賑やかな食卓は3人になり、急に淋しくなった。
克彦のことが総べて終えた6月初め、悲しみと忙しさに明け暮れた心と体を休めたいと思い、
一家3人で層雲峡温泉で遊んだ。 青葉は眼にしみ山峡は美しかったが、いるべき人が
いない旅は何かにつけて淋しかった。

克彦が逝って4ヶ月後、私は急性胃潰瘍になり□□病院で胃を3分2切除した。 余病も
併発して入院は2ヶ月に及んだ。 担当医は今までの心労が原因でしょうと言ったが、
最愛の吾が子を失った父の苦しい試練であった。

克彦は明るく、賑やかな子であった。 少しばかりあわて者で、友も多く皆に愛され、学校
では少しは信用もあったのであろう。 一年生の時も、三年生になっても学級委員長に選
ばれていた。

将来何になるんだときくと “ パパのように大きなダムや発電所を造る技術者になるんだ ”
と言って私をよろこばした。 親として、吾が子の長命を願わぬ者はない。 克彦の14年
の生涯はあまりに短い生涯であった。

彼の短かった生涯を振り返ると、その時々の俤 ( おもかげ ) がまざまざと瞼に浮かぶ。
彼の生前、私は仕事が忙しく、ろくに親らしいこともしてやれなかった。 これが悔やまれる。
彼は限りない悦びと希望を父母に与え、天の命ずるままに、父母弟を後に残した。

父44歳、母39歳、弟11歳であった。
人生の苦しみは時がいやしてくれる。
あれから三十余年の歳月が流れている。
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