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心の命ずるままに
きれいな水を子どもたちに
2007-06-29 Fri 21:04
水マップ

今日、水処理技術企業であるオルガノ主催の「 水セミナー 」に参加してき
ました。 「 美味しい水を作るための技術 」、「 河川を汚さない排水を処理
する技術 」などの進歩は急速で、環境計量士として“ 水の汚れ度合 ”の
検査に携わっている私にとっても感心することの多い内容でした。

一方で、先日ユニセフからメールが届いたのですが、
“ ラオスの子どもが差し出した水の色、それは、黄色でした。
マリの子どもが口をつけている川の水、それは、まぎれもなく泥の色でした。
世界の多くの場所で水は、「 水色 」ではありません。 ”というもので、さらに
“ 毎日4100人以上の子どもたちが、安全な水がないことから起こった
下痢性の病気で命をうしなっている ”とのことでありました。

日本では「 美味しい水 」を求め、発展途上国では「 命をくれる水 」を求める。
多分、途上国では、「 排水処理の技術 」が、飲み水に対しても必要なので
しょう。 そして、途上国では一本の井戸が、多くの子供を救っており、高度
な水処理技術はコスト的にも無理のようです。

ところで、このことは遥か遠い国の問題なのでしょうか。 地球温暖化がクロ
ーズアップされている中で、“ 21世紀の世界は石油ではなく、水を巡って各
国が争う「 水の世紀 」になるだろう ”と云われています。

また、穀物1t を生産するために、1,000t の水が必要と云われており、食料
自給率が極端に低く、多くの穀物を輸入している日本では、外国から大量の
水も輸入していると云われています。

地球温暖化や環境破壊により、干ばつ地域の拡大、局地的な集中豪雨の
多発等により世界の水事情に大きな変化が生じてきています。 今、ユニ
セフが発展途上国で真剣に行っていることは、決して他人事ではなく、将来
私たちも、「 命をくれる水 」に対して、多大のコストを支払わなくてはならな
くなるでしょう。

発展途上国における病気の80%が不衛生な水が原因であり、8秒に一人
の割合で死亡していることが国連で報告されていますが、“ 生きていくた
めに飲む水が、命をうばう ”・・・皮肉で、悲しい現実です。

水と衛生、環境の分野におけるミレニアム開発目標( ユニセフ )
      特集サイト 「 命をくれる水、命をうばう水 」 より

 2015年までに・・・・
 ・ 安全な飲み水への継続的なアクセスのない人の数を半分に減らす 。
 ・ 基礎的な衛生施設( トイレ )へのアクセスのない人の数を半分に減らす。
 ・ すべての学校に、衛生施設(トイレ)と手洗い場を設ける。

  なお、上の写真はこの目標の各地域の達成見込みです。
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「 オードリー 」の生き方と死に方
2007-06-22 Fri 07:55
オードリー


 BS朝日の「 誰も知らないオードリー・ヘップバーン
   ~アンネ・フランクへの想い、愛と苦悩の生涯 」から・・・・

・・・・・・
オードリー・ヘップバーン
「 私は終戦直後の1946年にアンネの日記を読みました。 私は打ちの
めされました。 大きな衝撃でした。 アンネは私自身だったからです。
歳もまったく同じ、私は自由でしたが アンネは隠れていました。
私たちは同じ戦争を体験したのです。 」


同い年で同じ国の戦争体験をしたオードリーとアンネ、アンネが日記に書いた
ことはオードリー自身に起きたことでもあったのです。 オードリーが隠れ住
んだアーネムの町でもユダヤ人たちは強制連行されました。 ある時、オード
リーはアーネムの駅で連行される赤いコートを着た少女と目が合いました。

ショーン・ヘップバーン( 息子 )
「 母にとって忘れられない思い出だったのでよく話していました。
冬で背景が灰色でした。 母はその灰色の世界の中で赤いコートを着た少女の
イメージを忘れられずにいました。 その子は当時の状況を象徴していたのです。
オードリーは常に戦争の記憶に苦しんできました。 ファシズムに傾倒し自分を
捨てて戻らなかった父、不足する食べ物、絶え間ない爆音や銃声による日常的な
死の恐怖、それは悪夢となって常によみがえります。 」


オードリー・ヘップバーン
「 脳裏から離れることはありません。 当時、ナチスが町中をうろうろしていま
した。 ある時、ある瞬間に記憶がよみがえるんです。 大きな建物の横を通り
過ぎた時のおぞましい声。後になって、拷問されている人の声だと知りました。 」


そんなオードリーにとってアンネの日記は、戦争の記憶をまざまざと思い出させる
ものでした。

オードリー・ヘップバーン
「 女優というのは、全く別の人格になりきって演じるものです。アンネ・フランク
は他人ではなく、私自身であり過ぎたためにもう一度つらい体験をすることは
できなかったんです。 」


映画「 アンネの日記 」のアンネ役のオファーもあったのだが、この役を断った
オードリー。 しかし、この日アンネの父、オットーと撮った写真をお守りとして
自分が持っていたアンネの日記に挟んでおきました。

オードリーは1967年スイスのトロシュナに移り住みます。 そして、子供
たちと一緒に過ごそうと考えたのです。 子供たちとの時間を過ごすため
映画界を引退しました。 もし引退しなかったらきっと後悔したでしょう

オードリーがスイスを選んだのは、この国が戦争とは無縁の永世中立国だった
のも大きな理由です。

安息の地を得たオードリー。 でも、60歳を真近にした1987年、あるイベント
に参加したオードリーは心を動かされます。 それは、世界の恵まれない子供
たちを救おうとするユニセフ主催のイベントでした。
オードリーは今の私を受け入れてもらえるのであれば、何か協力できないかと、
ユニセフのジュネーブ支部に申し出ました。

地下室でチューリップの球根を食べながら辛うじて生きながらえてオードリー。
彼女はユニセフの前身に命を救われたことを忘れてはいなかったのです。
ユニセフとの関わりは戦後すぐでした。 破壊されたヨーロッパには助けが
必要でした。 ユニセフは傷ついた子供たちに食べ物や薬、衣類、住居を与え、
助けたのです。

1987年の秋、ユニセフで働くことを決めたオードリーは、翌年4月、正式
に親善大使となりました。 その報酬は1年1ドル、オードリーが最初に訪ね
たのはエチオピアでした。

オードリー・ヘップバーン
「 二度とこんな悲劇を起こしてはいけません。 エチオピアのキャンプでは
500人もの子供たちが死んでいるのです。 」


エチオピアを訪ねた後のコメントは、マスコミに大きく取り上げられました。
ユニセフの活動を広く世界に紹介する役割をオードリーは見事に果たします。

自分もかつて、ユニセフの前身から差し伸べられた救いの手で助かったよう
に、子供たちの状況を世界に向けて語りかけ協力を求めたのです。
しかし、子供たちの置かれている惨状にオードリーは打ちのめされました。

ユベール・ド・ジバンシー
「 ユニセフの旅から帰って来るたびに私はオードリーと会いました。
彼女は“ ユベール、私は地獄から戻ったわ ”と言ったのです。 飢えの
ために子供が死に、エイズのため死んでいく子供、とても辛かったと。 」


子供たちの惨状をエチオピアで目の当たりにしたオードリー。 少しでも子供
たちのためになれば・・・オードリーはますます活動に没頭していきました。
あなたの協力と愛情は今日の子供たち、そして、私たちの将来を救うのです。
オードリーは訴え続けました。

戦争や内戦で苦しんでいる子供たち。そして母親たち。
その姿にオードリーは、自分自身の戦争体験を重ねていました。

ユベール・ド・ジバンシー
「 バングラディシュ、ルアンダ、エチオピアなど、貧しい国、戦争やその
せいで罪もない子供たちが死んでいく現実を見て、とても辛そうでした。
それらの国の現状を目の当たりにしたオードリーはとても深く落ち込み、
悲しんでいたのです。 ある時、彼女は私にこう言ったものです。
人々の悲しみに出会うたびに、戦争を引き起こした責任のある人たちや
私利私欲で戦争を起こさせた人たちが腹立たしくてたまらないと・・・
オードリーは私に、戦争を止めて、子供たちを救いたいのに、その解決
策が見つけられない。と嘆いていました。 」


親善大使としてエチオピアを訪問した後、オードリーは、ユニセフの求め
に応じて世界各国を飛び回ります。 そこには、笑顔でオードリーを迎え
る子供たちもいれば、笑顔を見せるほどの気力すらない子供たちの姿があ
ったのです。

60歳となったオードリーには、肉体的にも精神的にも辛い旅が続きます。
疲れきった体と心を癒してくれるのは、トロシュナ村の自然と静けさでした。
彼女はここでしばらく、羽を休めてはまた次の旅へと出かけていったのです。

1989年11月には 子供の権利に関する国際総会に出席し、子供の権利条約
を読み上げました。

オードリー・ヘップバーン
「 とても大切なことを読みます。 この条文には、私は深く感動しました。
“ 児童は人種や、肌の色、性、言語、宗教、政治的に関わらず、いかなる差別も
なく、権利を尊重し、確保される ” 」


オードリーはユニセフの活動を世界に知らせるために、記者会見を頻繁に開き
ました。 女優、オードリー・ペップバーンという名声を利用することを最も嫌っ
ていましたが、子供たちのために使うのは悪いことじゃないと語っていました。

1990年、オードリーは「 アンネの日記 」の朗読コンサートを実施しようと
決心します。 アンネと向かい合うことは、思い出したくない苦しい戦争体験と
向かい合うこと。 オードリーは長い間、アンネと向かい合いませんでした。
しかし、いつしかアンネと向かい合う用意が出来てきたのです。

オードリーは、この朗読をとてもやりたがりました。 ユニセフの資金集めの
ためであったこと、そして日記の朗読は詩や本の朗読と同じでアンネになりきら
なくてもよかったからです。

オードリー・ヘップバーン
「 混乱、悲壮感、そして死が渦巻く上で希望を持つのは難しい。
世の中は野生化し全てを破壊する雷鳴が聞こえる。
何万人もの人が苦しむ声が聞こえる。
そんな中でも空を見上げると、全てが正常になり、この悲惨さが終わる。
そして、平和と静けさが再び訪れるような気がする。
理想を捨ててはいけない、それを現実に出来る日がくるかもしれないから。
こんな状況にもかかわらず・・・・
私は、“ 人は、本当はきれいな心を持っている ”と信じている。 」


「 アンネの日記 」朗読コンサートは、1990年から始まりました。 
日記を読んでから、45年目のオードリーはようやく戦争の記憶から解き放たれ
たのです。

その頃から、オードリーは疲れやすくなっていました。

ロバート・ウォルダーズ(パートナー)
「 私たちはユニセフの活動にとても熱心に取り組みました。 その頃には、体調
が悪くなっていたオードリーにとって、世界中を何度も飛び回るのは、精神的にも
肉体的にも難しかったので、実は大変な仕事でした。 」


体調がすぐれない日が増えてきました。 元々スリムなオードリーは益々、やせて
きていました。 周囲の人々は、彼女の健康を気遣います。
けれど、彼女はユニセフ活動を止めようとしませんでした。

1992年9月、オードリーはアフリカのソマリアへ旅立ちます。 そこには、
何百人、何千人という愛や食べ物に飢えた子供たちがオードリーを待っていました。
オードリーの顔からは、笑顔が消えていました。 ソマリアの難民たち、そして
子供たち、これまで訪ねたどの国どの地域よりも悲惨な状況でした

このとき、オードリーは癌に侵されていました。 それに気づいていたのは
ジバンシーでした。

ユベール・ド・ジバンシー
「 ロバートは私に、電話を掛けてきて、オードリーの衣装のウエストが小さくて
入らないと・・・彼女はとてもやせているのに、ドレスが入らなかったのです。
むくんでいると感じました。 」


オードリーのウエストは「 麗しのサブリナ 」で、初めてジバンシーがサイズを
測った時から33年以上も同じサイズを保っていました。 オードリーの体に異変
が起きているとジバンシーはそう直感しました。

ユベール・ド・ジバンシー
「 カリフォルニアにいる有能な医者に、今すぐ診てもらいに行った方がいいとオー
ドリーに助言しました。 体がむくんで、ドレスが着れないほどだったからです。
彼女も困っていて、急いでロサンゼルスへ行きました。 そして、医者に診てもら
ったところ思いもよらなかったことに悪性の癌が2つ見つかったのです。
オードリーに助かる見込みはないと、医者は告げました。 私は、オードリーは
スイスの我が家に帰るべきだと考えました。 自分の家で人生の最後を過ごさせ
てあげたかったのです。 」


ジバンシーは知人通じ、オードリーのために飛行機を用意しました。
秘密の内に病床のオードリーをトロシュナの自宅に運んだのです。

ユベール・ド・ジバンシー
「 その翌日、オードリーから私に電話がありました。
彼女は素敵なことを言ったのです。
“ Thank you for the magic carpet ( 魔法のじゅうたんをありがとう ) ”
オードリーはそういう、可愛らしい女性でした。 」


1992年の冬、ジバンシーは病床のオードリーを見舞いました。 オードリーは、
60歳の誕生日プレゼントされたバラ “ ジバンシーが60本の苗をフランスから
贈った ” をどうしても見せたいと、ジバンシーを庭に誘いました。

ユベール・ド・ジバンシー
「 とても寒い夜でした。 体調が悪いのに、庭に行こうと私を連れ出すのです。
冬だから花は咲いていないと言った。 私はオードリーを抱きかかえるようにして
庭に出たんですよ。 夜暗い中、懐中電灯を照らして、オードリーは私が贈った
バラの木を見せようとしてくれました。 ところが、近所の家の軒から急にフラ
ッシュがたかれました。 病気の彼女の姿を撮影しようと、ずっとそこにパパラ
ッチが張り込んでいたようでした。 ひどいことです。 フラッシュに驚いた
オードリーを連れて、慌てて家に戻りました。 花が咲いていなくても、あなた
に贈ってもらったバラをどうしても見せたかっただけなの、とオードリーは言っ
ていました。 病気なのにそんなオードリーの優しい気持ちに心打たれました。 」


1993年1月20日オードリーは世を去りました。 63歳でした。

オードリーは村の小さな共同墓地に葬られました。
愛するトロシュナを見渡せる小さな丘の小さな共同墓地に眠る。
それは生前、オードリーが希望していたことでした。

オードリー・ヘップバーン
「 決して忘れない
人間はみんな同じなの
お互い愛しあい
人のために尽くしてほしい 」
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ローマの休日 Roman Holiday(1953年)
2006-12-05 Tue 21:21
ローマ

「 ユニセフからの手紙 」の中、子どもを抱く在りし日のAudrey Hepburn。
ユニセフ親善大使として、インドやソマリアなど世界各地で活躍した頃
の姿で、その優しい眼差しは、正に“永遠の聖女”です。

彼女の出世作である 『 ローマの休日』 は、私が生まれる3年も前の作品。
ただ、私が大学生の頃、リバイバル上映をしており、
何度も何度も繰り返し観た作品でした“目に焼きつく程”。

レンタルビデオがある訳ではなく、
映画館でしか観ることができませんでしたが、
現在のような入れ替え制ではなく、何回でも繰り返し観ることができ、
また、2本立てが主流だった当時、旧作は小さな劇場で
1本立て上映されており、格安で観ることができました。

この映画は、手軽に自宅でDVDを楽しめる現在、
最もポピュラーで親しまれている名作でしょう。
王女アンと新聞記者ジョーとの切ない1日の恋を描いているこの作品は
最近の映画にはないシンプルで大変良く出来た作品です。
アカデミー最優秀脚本賞を取ったのもうなずけます。
最近のアカデミー賞受賞作品には首をひねるようなものもありますね。
古き良き時代の“おとぎ話”の中で Audrey は妖精のような可憐さでした。

Audrey は1929年にベルギーの首都ブリュッセルで生まれ、
第二次世界大戦も経験され、アンネ・フランクと同い年で、
反ナチスのレジスタンスに従事していたこともあったとのことです。
映画への出演数はそれほど多くはないものの、
この作品でアカデミー主演女優賞を獲得しました。

その後、晩年にはユニセフ親善大使として活躍し、
惜しまれて1993年に63歳の若さで亡くなりました。
また、共演の Gregory Peck も Edward Albert も今はもう居りません。

最後の共同記者会見で

記者 : 諸国の友好関係についての展望をお聞かせ下さい
王女アン : 友情を信じます 人々の友情を信じる様に
新聞記者ジョー : 自社を代表しまして一言
          王女様の信頼が裏切られる事はないでしょう
王女アン : 伺ってとても満足です
記者 : 最も印象に残った訪問地は?
王女アン : いずこも・・・
       いずこも忘れ難く良し悪しを決めるのは困難・・・
       ローマです! 勿論ローマです
       今回の訪問は永遠に忘れ得ぬ想い出となるでしょう
記者 : 病に倒れられたのに?
王女アン : そうです
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ユニセフからの手紙
2006-12-02 Sat 22:54
ユニセフ1

ユニセフから、私あてに手紙が届きました。
たぶん、皆さんの手元にも届いているとは思いますが、
この様なことは、出来るだけ多くの人が知っていた方がよいと思いますので、
私のブログでも、紹介します。

なお、私も僅かですが“力添え”をしたいと考えております。
皆さんも“生きたお金”を使ってみませんか。
小さなことから始めてみませんか。

・・・・ 様  from ユニセフ事務局長 アン・M・ベネマン

毎年、世界では1000万人以上の子どもたちが5歳の誕生日を迎えることなく
命を失っています。その多くが防ぐことができるものです。

西アフリカは、子どもの死亡率が世界で最も高い地域のひとつです。
わずかな畑を耕し、命をつないでいる村人の生活は貧しく、
子どもたちの多くが栄養不良です。
診療所のある村は少なく、病気の子どもの治療が手遅れになることもしばしばです。

特に蚊が媒介するマラリアによる被害は深刻です。
ただでさえ栄養不良で身体が弱っている子どもたちは、マラリアにかかると、
40度近い高熱と頭痛、吐き気に苦しみます。
そしてその多くが命を落としているのです。

5000円で、栄養不良を緩和し感染症から子どもを守るビタミンAを、
1146人の子どもに1年間投与することができます。


10,000円で、殺虫処理を施した蚊帳を、
子どものいる家庭16軒に届けることができます。
この蚊帳は、普通の蚊帳の約2倍ものマラリア予防効果があります。


ユニセフは、ビタミンAの投与、殺虫処理済み蚊帳の利用促進、
予防接種の実施など低コストで効果の高い対策によって、
西アフリカで子どもの死亡率を劇的に減らす活動をさらに加速させました。
この方法を成功させるうえで重要な役割を担うのは、
子どもに最も近いところにいる母親や村人です。

今年7月、私はガーナ北東部アクカ村での 『 母親保健チーム 』 の活動を見てきまし
た。 村からボランティアで集められた母親たちは、まず、マラリアや下痢性脱水症
の見分け方、応急措置、蚊帳の正しい使い方などを教わります。
教習を教えた母親たちには、基礎医薬品キット、子どもの救命方法を絵にしたカー
ド、そして村の遠くの家々にも訪問できるように自転車が渡されます。

30,000円で、『 母親保健チーム 』 が使う自転車を6台届けることができます。
自転車があれば、子どもが病気のときに救急車がわりに使うこともできるのです。


このようにして、新たな取り組みが実施された西アフリカの村々では、
わずか3年間で、子どもの死亡率を20%も減少させることに成功しました。

今、私たちはこの取り組みをアフリカ全体に応用しようと思っています。
そのためには、みなさまのご支援が不可欠です。
子どもたちの命を守るユニセフの活動を加速させるために、
どうかお力添えをお願いいたします。
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