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心の命ずるままに
To chicchiさん from 記念館
2009-09-09 Wed 21:37
0909九記念館21

昨年の今頃、ここにいらしたのでしたね。 こじんまりとひっそりと佇む記念館の中に
九さんの唄が流れています。 障害を持った方が運営していて、数々の写真の中か
ら笑顔が溢れています。 

実は、ここに来たのは今年の5月のことで、これらの写真もその時のものです。
そして、遅ればせながら、今年ここに来ることが出来なかった方に贈ります。

未だに、胸の中に彼が生き続けている方に敬意を表して・・・・

なお、下の文は、ここに掲示されていた、今は亡き青島幸雄氏の追悼文です。

0909九記念館

坂本九を偲んで ( 青島幸雄 )

8月12日、坂本九さんは突然、あまりにも突然我々の手の届かない所へ行ってしまわ
れました。 いつも元気でニコヤカにしていた九ちゃんとこんな別れ方をしようなどとは、
誰も夢にも思わなかったに違いありません。

0909九記念館2

九ちゃんが我々の眼の前に姿を現したのは昭和34年頃のことだったでしょうか。
当時18才位だった筈の九ちゃんは、幼さの抜けない童顔を常にほころばせている無邪
気な若者でした。 持ち前の親しみやすい性格のせいか、多くの友人や先輩達に愛され、
可愛がられ、日ごとに人気者になって行きました。

0909九記念館3

私はこの頃に、作詞者として、彼のヒットソングのいくつかの唄の作詞をし、構成者とし
て数々の放送番組を書き、共に楽しい多忙な日々を過ごしました。
あの頃は私にとっても忘れることの出来ない大切な青春の一時期であり、一緒に夢中
で動き廻っていた事を誇りに思っています。

0909九記念館17

時にはきびしくしかられもしたろうし、数々の失敗もあったでしょう、ひとの言う事にいつ
も耳をかたむける素直さと、試練に立ち向って行く勇気と生真面目さで、彼はすべての
人々の期待に見事にこたえていきました。 やがて彼は、今までに例を見ないほどの
早さでスターに育って行きました。 その後の事は誰でもが知っている通り。

0909九記念館4

常にやさしく彼を見守っていてくれた家族に加えて、素晴らしい夫人と子供さん達にも
恵まれ、社会人として友人達から信頼され、尊敬される立派な男に成長しました。
さあこれからは、父親として子供の教育に当り、あるいは先輩として後輩の指導につと
め、つみ重ねてきた実績を土台に益々社会に役立つ様に頑張ろうとひそかに決意をし
ていたに違いありません。 彼の心情をおもうと残念でたまりません。

0909九記念館16

でも彼は私につくづく云った事があります。
「 僕は本当に唄を唄うことが好きです。好きな唄を唄ってひとに喜んでもらえて、しかも
生活が出来るなんて、こんな幸運なことはありません 」

0909九記念館19

考え様によっては、彼はとても幸運な男だったと云えるかもしれません。無理にでもそ
う思いましょう。 そう思うことで彼を失った悲しみをまぎらわすより仕方ありません。
多くの人々に夢や希望や喜びを与え続けてきた坂本九の唄の数々をあらためて聴いて
みましょう。 これからも、聴く人の、唄う人の胸の中に彼が生き続けることを祈りながら・・・・

0909九記念館18

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別窓 | 坂本九 | コメント:5
まんなかとはじっこ
2008-08-27 Wed 19:22
0808愛

私は谷川俊太郎の詩が好きで、色々と集めていますが、その中に “坂本九のために”
という副題のついた詞を偶然発見したのです。 この詞に曲を付けたのは、芥川龍之介
の三男で、クラシックからポピュラー音楽まで広く活躍された、今は亡き芥川也寸志氏
ですが、残念ながら、この歌を聴いたことはありません。

0808愛2

でも、これは坂本九さんにふさわしい詞です。 柏木由紀子さんとの馴れ初めを見て
いるかのような内容で、実にキュートです。 どういう経緯で、谷川俊太郎氏がこの詞を
坂本九さんに贈ったのでしょう。

0808愛3

このようなストレートに明るい愛の歌は、洋楽ではしばしば見受けられるのですが、当時
の邦楽には見当たりません。 ほとんどが、 “ 別れ ” や “ 涙 ” の歌です。 
そして、このような歌を、違和感なく自然に歌えたのは、たぶん後にも先にも、坂本九さん
だけだったのではないでしょうか。 ご覧のあなたも、そう思いませんか?

まんなかとはじっこ
          坂本九のために


まんなかとはじっこ
まんなかには心臓 ( ハート )
はじっこには小指
まんなかはわくわく
はじっこはくすくす
なぜって僕は彼女と指きりげんまんしてんのさ

まんなかとはじっこ
まんなかには心臓
はじっこには鼻
まんなかはわくわく
はじっこはむずむず
なぜって僕は彼女と吹雪の中を歩いてる

まんなかとはじっこ
まんなかには心臓
はじっこには髪の毛
まんなかはわくわく
はじっこはぞくぞく
なぜって僕は彼女と生まれて初めてキスしちゃった

まんなかとはじっこ
まんなかには心臓
はじっこにはランランラン
まんなかはどきどき
はじっこはランラン
なぜって僕は彼女のすべてを知りたいんだ
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別窓 | 坂本九 | コメント:2
涙と静かな大合唱 「 星空の旅 」
2008-01-19 Sat 19:27
shuwa

それでは、前回中途半端に終わってしまったので、続きをお話しします。

九さんの歌碑が、笠間市にある、戦争末期に疎開していた家の近くに建って
いて、その記念碑に刻まれている横顔が向いている方向にある、弁財天の祠
( ほこら )に疎開当時、目の不自由な両親と男の子が住んでいたとのことです。

そして、その男の子が目の見えない父親の手を引いて、気遣いながらみせた、
はにかむような、でもうれしそうな、温かい笑顔が、当時3歳だった九さんの心
の奥底に潜在意識として残っていて 「 九スマイル 」 に繋がっていったとのこと
です。 このように、九さんの福祉に対する志向も、この頃から培われていたの
ですね。

ところで、前回のお話の続きは、この男の子の夢から始まります・・・・・

涙と静かな大合唱 ( 坂本照明著「 星空の旅人 坂本九 」 )

九はまた夢を見ました。 あの男の子の夢です。 扉の開いた祠の中で何かを
しています ・・・・・・・

そこで目が覚めました。
気がつくと、2歳の次女・舞子が起こしにきて、手を引っ張っていたのでした。
愛娘の笑顔を見ながら、九は手話の子守唄ということを思いついたのです。
「 そうだ、手話の言葉で歌を歌えばいいんだ 」
九は本当に目が覚めた気がしました。

・・・・・・・

それは16年ぶりのゴールデントリオの歌作りでした。
永六輔さんが作詞、中村八大さんが作曲をして九が歌う。 あの 『上を向いて
歩こう 』 の3人がまたいっしょに取り組んだのです。

もちろん、ねらいは手話を歌にするという前代未聞のものです。 永さんと八大
さんは、九が相談をもちかけたとき、これは新しい試みだね、と気持ちよく理解
してくださいました。

さまざまなジャンルのスペシャリストの方に幅広い人脈をもつ永さんが、早速手
話の先生の丸山浩路さんと手話の歌詞作りに取り組まれます。

永さんが、手話の中にも好きな手話があるからと、それをつなげて軸とし、全体
のリズムと流れを工夫されて変化をつけ、心が温められ、未来への希望が生ま
れてくるような素敵な手話の歌を作られました。

題名は 『 そして想い出 』 です。 その手話の詞に、八大さんが透きとおった青
空のような美しいメロディーをつけてくださったのです。

さて、今度は九がそれにどうリズムをつけて手話の歌として歌うかです。
聾者の言葉としての手話の手が歌うということは、よくある当て振りとは心構えを
変えなければならないと九は考えました。

聴者には歌声を聴いていただけますが、この手話の歌は目でも聴いてもらわなけ
ればなりません。 つまり 「 手 」 が歌っているのです。 そこで九は、手話が少し
先行し、それに歌声がついていくというタイミングを工夫することにしたのです。

昭和54年6月4日。 この手話の歌を披露するときがやってきました。
第28回全国聾唖者大会のアトラクションに、九の出演が以前から予定されていま
した。 芸能人の中でも手話が上手ということで出演依頼があったからです。

当目、会場の横浜市の神奈川県民ホールには、全国から3000人の聾唖者の方
が集まっていました。 会場の多くの人は、手話禁止の時代に子どもとしてつらい
時期を体験してきた人たちです。 いまでも社会や聴者に対してたえず緊張を強い
られるということも聞いています。

耳が聞こえない人たちの前で、手話の歌を歌うという、こんな手話歌唱のコンサート
は、もちろん世界で初めてといっていいものでした。

いよいよ、九がステージに登場しました。
「 こんにちは、お元気ですか 」と手話で九は挨拶します。
「 これから素晴らしい手話の歌 『 そして想い出 』 を歌います 」
そう言うと、司会者が手話で、この手話の歌のコンサートは 「 世界初の試みです 」
と告げ、歌の内容を説明しました。

演奏が始まり、九が歌いだしました。

誰かと話がしたい 楽しく話がしたい
めぐり逢う誰かと ふるさとの話
そして想い出 想い出
雪舞う山 波よせる海
なつかしい祭 祭


九は手話をしながら、いつもの九スマイルで声を出して歌いました。

めぐり逢う誰かと ふるさとの話

このフレーズにきたときです。 会場に音のない静かな大合唱が起こりました。
みんなの手が、みんなの指がいっしょに、九の手話に合わせて歌っているのです。
世界で初めての 「 静かな大合唱 」 でした。

2コーラス、3コーラスと進むなか、後ろのほうの席では立ち上がる人もでてきます。
大成功です。 九の目に喜びの涙が浮かびました。 いまホールいっぱいに感動の
波がうねっています。 演奏が終わっても、会場では手話の動きが止まりません。
みんなの手が、いまの感動を確認しあっているのです。 そして笑顔、笑顔です。

このとき九は、音のない世界に手話の音楽、手楽が生まれたという実感に包まれて
いました。 そして、心の中で叫びました。
「 親父、やったよ。 世界で最初に手話の言葉で歌を歌った歌手になりました 」 と。

父の最期を看取ることができなかった九が、世界で最初に何かをしたといわれる歌
手になると、そのとき父に誓った約束を10年目にして果たすことができたのです。
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別窓 | 坂本九 | コメント:0
手楽の誕生 「 星空の旅人 」
2008-01-18 Fri 23:15
hosizora

私が、22年間の時空を飛び越えて、九さんの虜になったのは一冊の本がきっか
けで、その後、栗山町にある「 思い出記念館 」を訪問し、さらに惹かれていったの
です。

その “ 心の旅 ” も、今回3冊目の本、兄である坂本照明さんの 「 星空の旅人
坂本九」に到達しました。 この本は、兄の視点と同時に、人材育成の専門家の
目で書かれていて、時に主観的に、時に客観的に、とても意味深いものでありま
した。

そして、序論の最後にこう書かれています。
九の人生をもう一度たどってみることで、あの優しさと純の原点を探りだすことが
できるのではないだろうか。 さまざまな感動を共有し、多くの思い出を残してくれ
た弟・九への感謝の念と、そのありし日を偲びながらペンを執りました。


九さんのあの性格は、末っ子として、このようなすばらしい兄弟に囲まれた幼少期
が土台となっていたようで、さらに、「 寂しいときは、自分よりもっと寂しい人のため
に働きなさい 」と本気で3度叱ったという厳しい母親の愛情に育てられたようです。

その後の活躍は、「 見せる笑顔 」から「 ほほ笑み返し 」、さらに「 感動創造 」へと
進んでいくのです。 そして、その集大成が福祉に対する取り組みで、「 心のバリ
アフリー 」 や 「 手楽の誕生 」 に結晶していったようです。

ところで、この 「 手楽 」 とは手話の音楽のことで、感動的な 『 そして想い出 』 が
生まれたのです。 今回初めて知ったのですが、当時は手話がタブー視をされてい
たのですね。


手楽の誕生 ( 坂本照明著「 星空の旅人 坂本九 」 )

・・・・・・・・・・・

ここにきて九は、いよいよ最後の問題に解答を出さなければならなくなりました。
手話をする子どもたちにどうしたらその笑顔を取りもどすことができるのかを。
まず、聴者が無意識に聾者との間に心の壁をもうけ、線を引いてしまっているもの
とはなんであったかを、九は次のように気づいたのです。

聴者の立場からは、 「 聞こえない 」 ということは不自然であり、問題だと考えてし
まいます。 しかし、聾者の立場から見ると、 「 聞こえない 」 ことは不便であって
も、それは自然な現実の世界なのです。 それを不自然であるとか、問題だと感じ
るのは聴者の一方的な思い込みでしかないのです。 それが聾児たちに、聴者た
ちとの間の見えない心の壁と感じられるのではないでしょうか。

さらに、聴者には通じないからという理由で手話がタブーとされ、友人と楽しみにし
ている心を通わす会話も人前ではできません。 家の中でも聾児はたえずしゃべる
訓練を強いられます。 それもまた、心の壁をより越えがたいものにするのかもしれ
ません。 そこにこそ、 「 ぼくのお母さんに、聾者になってほしい 」 と言った聾児の
涙のわけがあります。

その聾児がうらやましく感じたのは、ただ友人の母子が手話でさまざまなことを話し
合えるからだけではありません。 この母子の間では 「 聞こえない 」 ということは
当たり前の現実であり、自然なのです。 だからこそ、聾者に対する心の壁などを
感じることのない安らぎの場と、その聾児にはみえたのではないでしょうか。

聴者は「 聞こえない 」ということが問題なのだから、 「 聴者には通じない手話はタ
ブーにしてでも 」 聾者は聴者に少しでも近づくために、しゃべれるようになる口話の
訓練に努力しなければならないのだと思ってしまいます。 しかし、この手話はタブ
ーにしてでもというとき、手話は言葉ではないのでと言われることがあります。
話すことと、手話の間に線が引かれてしまうのです。

言語とは音声語と書き言葉だけをいい、手話は言葉ではないという極端ともいえる
見方が、ミラノで開かれた第二回聾唖教育国際会議で、口話法が手話法に勝利し
た頃から生まれていました。 そのミラノ会議のときには、手話に対する偏見から聾
の教員を票決から締めだしたともいわれています。

そして、言語は他の動物がもっていない人間だけが所有するもので、人間は言語
を使用することで真に人間といえるという考えが、さらに状況を悪化させることにも
なりました。

「 手話は言葉ではない 」とみられながら、それにもかかわらず、聾児たちは先生の
目の届かぬところで、部屋の隅で、目立たないように手話を使い続けました。
そして、聾児たちに笑顔が失われていったのです。

九は、その考えを裏づける情報も手に入れました。 高齢の聾者の方からの証言で
した。

「 手話は不完全で動物的コミュニケーション手段とみなされ、そしられ、侮辱され、
その使用は非難攻撃の的になってきました。 手話の使用にいまだに罪悪感、劣等
感を抱いている人たちも多いのです 」

九は聾児たちに笑顔を取りもどすにはどうしたらいいのか、そのために自分に何が
できるのかを考え続けました。

まず、聴者が無意識にもつ心の壁や、手話に引いた線を取り除いていくことが大事
であろうと考えました。 それには 「 手話は言葉である 」 ということを聴者に理解し
てもらうこと、そしてその手話に親近感をもってもらうことが必要となるだろうとも思い
ました。

その頃、九は知りませんでしたが、1960年代にアメリカのストーキーがすでに聾者
の手話に文法があることを “ 発見 ” していたのです。 その後も言語学的な手話の
研究は進められていき、手話は音声語と同じ価値をもったひとつの言語であることが
言語学の世界では常識となってきたときには、九はすでに亡くなっていました。

しかし、九は 「 言葉は心が通い合うかどうかの問題だ 」 と言って、手話が言葉であ
ることをすでにその鋭い感性で見抜いていたようです。

それにしても、その頃は手話が 「 言葉 」 であることをどのように証明できるのか、
またしても九の思い惑う日が続いたのです。 ( つづく )
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